石田三成の実像3434 白峰旬氏の「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉」7「秀次事件に関する記載」5  谷徹也氏の「『秀次事件』ノート」2 事件後、謀反に恐怖心・猜疑心を抱いていた秀吉

 白峰旬氏の論文「スペインの世界戦略に挑戦する豊臣秀吉ー『スペイン統治時代フィリピン総督日本関係文書』に記された豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光の時代に関する諸事項の記載についてー」の「秀次事件に関する記載」の中で、事件後の状況について次のように記載されています。
 「彼(秀吉)の甥(秀次)、及び地位の高い人々が死去したので(日本)国内は平穏になったが、国王(秀吉)が多分に(謀反に?)恐怖心を抱いていることは確かである…」(文禄4年、100頁)
 この記載について、白峰氏の同書では次のように考察されています。
 「『地位の高い人々』が具体的にだれを指すのか不明であるが、秀次事件に連座した人々という意味かも知れない。この記載からすると、秀次が関白として健在でいる間は日本国内は平穏でなかった、ということになる。この点が秀次事件の原因と関係するのかも知れない。 
 さらに、この記載からすると、秀次事件のあとも秀吉に対する謀反の可能性があり、秀吉はそのことに恐怖心を持っていた、ということになる」と。
 この最後の指摘に対して、次の記載もそれに関連していると記されています。
 「この国王(秀吉)が死去したならば日本人はこれほど自分たちを圧迫する領主を(今後)認めはしないであろうことは確かである」(文禄4年、100頁)
 「彼(秀吉)は低い地位の者を引き立て、地位の高い者を引き下げることに努めているので誰も頭を上げる者がいないが、さもなければ彼(秀吉)は既に殺害されていたであろう」(文禄4年、100頁)
 この後者の記載については、白峰氏の同書では次のような指摘がされています。
 「秀吉の人心無掌握術によって均衡が保たれて謀反がおこっていないが、こうした方法を取らなかった場合、秀吉は謀反をおこした大名によって(怨恨により?)殺害されていたであろう、というスペイン側の見方は興味深い」と。
 秀吉が恐怖心や猜疑心を持っていたことについては、谷徹也氏の「『秀次事件』ノート」でも指摘されています。それを示すものとして、ルイス・フロイスなど外国人の記述の他に、日本側の史料も挙げられています。事件後の文禄4年8月12日付の秀吉朱印状写であり、その内容について次のように説明されています。
 「福原(長堯)以下7名の給仕番を定め、秀吉の配膳をさせたものである。福原らは5日おきに交代し、もし秀吉から他の御用が命じられた場合は、次の番の人へ繰り越すように決められている。おそらくは御膳への毒餉などを恐れ、近侍できる人物を絞ったものと思われ、秀吉の警戒感の高まりをうかがわせる」と。
 ちなみに、この7名の中に、三成の兄の正澄も含まれています。三成同様、正澄も秀吉の信頼を得ていたことがわかります。

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