石田三成の実像3415 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」20 「三成の退隠」6 三奉行に政権の正当性があることを示す最上義光宛家康書状 *この書状についての白峰旬氏の見解
中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の中で、三奉行に政権の正当性があることを示す史料として、慶長5年7月23日付の最上義光宛家康書状が取り上げられていました。この書状については、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)にも掲載されており、次のように現代語訳されています。
「確実を期して申し入れます。石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部少輔)の才知によって、方々へ触状が廻り、いろいろな風聞が拡がってのいます。(そこで)御働(会津征伐)については、これ以降御無用とします。状況については、こちらから重ねて申し入れますが、大坂の儀は政務以下、手堅く進めており、家康(此方)と大坂奉行衆とは一体です。三奉行からの書状を進覧します」と。
この書状について、中野氏の同書で次のように指摘されています。
「三成・大谷吉継と大坂『三奉行』との与同を否定することで、みずからに正統性があることを認めさせようとしている。家康自身も、秀頼を擁する大坂『三奉行』の存在が、政務・軍務の正統性を保証する前提と、意識していたことがわかる」と。
この書状については、拙ブログで前述したように、白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」でも取り上げられ、次のような指摘がされています。
「石田三成と大谷吉継が方々に出した触状とは『内府ちかひの条々』を指している可能性が高い」、「或いは、石田三成と大谷吉継が方々に出した触状が存在したとしても、それを上杉討伐の延期の理由にして、『内府ちかひの条々』が出たことを秘匿した可能性も考えられる」、「7月23日の時点で、家康書状において『先途者』という条件付きながらも、はじめて上杉討伐について『御無用』と記されたことの意味は大きい」、「『7月23日付最上義光宛家康書状』に添えた三奉行より家康宛の書状というのは、7月17日よりも前のものであった可能性が高い」などと。
白峰氏のこういう見解からすると、7月23日の時点で、家康のもとには「内府ちかひの条々」はすでに届いていたものの、家康はそれ以前の三奉行からの書状を添えて、三奉行と一体化していることを最上義光に強調しているということになります。家康が書状に上杉攻めの延期に言及していることから見て、家康は自分の判断でそう決定しているわけですから、この後に小山に諸将を集めて上杉攻めをどうするかという評定を開く必要はなかったと考えられます。この書状の内容は、白峰氏の小山評定否定説を裏付ける根拠になりうるのではないでしょうか。
三奉行に政権の正統性があることを示す書状については、これも拙ブログで前述したように、水野伍貴氏が、8月3日付の井伊直政・村越直吉宛伊達政宗書状の記述を取り上げられ、「三奉行を味方に付けることが正当性の裏付けとなるという認識は諸将の間でまだ健在だったようである」と指摘されています。
「確実を期して申し入れます。石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部少輔)の才知によって、方々へ触状が廻り、いろいろな風聞が拡がってのいます。(そこで)御働(会津征伐)については、これ以降御無用とします。状況については、こちらから重ねて申し入れますが、大坂の儀は政務以下、手堅く進めており、家康(此方)と大坂奉行衆とは一体です。三奉行からの書状を進覧します」と。
この書状について、中野氏の同書で次のように指摘されています。
「三成・大谷吉継と大坂『三奉行』との与同を否定することで、みずからに正統性があることを認めさせようとしている。家康自身も、秀頼を擁する大坂『三奉行』の存在が、政務・軍務の正統性を保証する前提と、意識していたことがわかる」と。
この書状については、拙ブログで前述したように、白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」でも取り上げられ、次のような指摘がされています。
「石田三成と大谷吉継が方々に出した触状とは『内府ちかひの条々』を指している可能性が高い」、「或いは、石田三成と大谷吉継が方々に出した触状が存在したとしても、それを上杉討伐の延期の理由にして、『内府ちかひの条々』が出たことを秘匿した可能性も考えられる」、「7月23日の時点で、家康書状において『先途者』という条件付きながらも、はじめて上杉討伐について『御無用』と記されたことの意味は大きい」、「『7月23日付最上義光宛家康書状』に添えた三奉行より家康宛の書状というのは、7月17日よりも前のものであった可能性が高い」などと。
白峰氏のこういう見解からすると、7月23日の時点で、家康のもとには「内府ちかひの条々」はすでに届いていたものの、家康はそれ以前の三奉行からの書状を添えて、三奉行と一体化していることを最上義光に強調しているということになります。家康が書状に上杉攻めの延期に言及していることから見て、家康は自分の判断でそう決定しているわけですから、この後に小山に諸将を集めて上杉攻めをどうするかという評定を開く必要はなかったと考えられます。この書状の内容は、白峰氏の小山評定否定説を裏付ける根拠になりうるのではないでしょうか。
三奉行に政権の正統性があることを示す書状については、これも拙ブログで前述したように、水野伍貴氏が、8月3日付の井伊直政・村越直吉宛伊達政宗書状の記述を取り上げられ、「三奉行を味方に付けることが正当性の裏付けとなるという認識は諸将の間でまだ健在だったようである」と指摘されています。
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