石田三成の実像3416 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」21 「三成の復権と新たな『公儀』の成立」1 慶長5年8月2日付の真田昌幸宛二大老四奉行連署状

 中野等氏の講演会「三成と関ヶ原」の「三成の復権と新たな『公儀』の成立」の中で、慶長5年8月2日付の真田昌幸宛二大老四奉行連署状が取り上げられていました。二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)と四奉行(長束正家・増田長盛・石田三成・徳善院前田玄以)が揃って発した書状の最初は、8月1日付のものですが、新たな豊臣公儀が正式に発足したことを示すものです。7月17日に「内府ちかひの条々」及び檄文が発せられたときには、三奉行が署名していますから、佐和山に隠退していた三成はまだ正式に奉行職に返り咲いていませんでした。もっとも「内府ちかひの条々」の作成には、三成が大きく関わっていたと思われます。家康の罪状を事細かに並び立てるのは、理路整然とした三成らしいやり方ですし、「内府ちかひの条々」と内容が酷似した、上杉家に伝わる石田三成・増田長盛連署條目があります。白峰氏は、この連署條目について、三成らが上杉景勝側にあらかじめ送った「内府ちかひの条々」のオリジナルバージョンであると指摘されています。
 三成が伏見城攻撃の督戦をして大坂城に入城したのが7月30日であり、その時に秀頼に拝謁して正式に奉行職に復帰したものと思われます。これで二大老四奉行体制による新たな豊臣公儀が成立したわけで、二大老四奉行連署状が初めて発給されるのは8月1日からです。中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中では、8月1日付の蒔田広定宛二大老四奉行連署状が取り上げられています。上記の真田昌幸宛二大老四奉行連署状も、中野氏の同書に掲載されています。
 その昌幸宛連署状では、秀吉が亡くなって以来、家康が秀吉の遺言に背いて、自分勝手な所業を進め、上杉景勝が弁明しているにもかかわらず、今度は上杉を攻めようとしていること、これは秀頼のためにならないので、秀頼に忠節を尽くすべく、上方を制圧し、出陣した諸将の妻子は大坂の人質にしたこと、徳川勢がこもる伏見城を攻めて討ち果たし、細川忠興の所領である丹後を攻め、田辺城をもう少しで落城させることができることなどが記されています。
 中野氏の同書では、この連署状について、「秀頼を推戴する新たな『公儀』の成立と、その構成者がみずからの正統性を主張するものであり、その意味できわめて象徴的な文書と評価される」と指摘されています。
 三成が正式に奉行職に復帰したのは、7月30日頃ですが、実質的にはもっと前だったということを白峰氏が指摘されています。
 すなわち、「『(慶長5年)7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状』では、文末で『詳しくは石田三成より述べる予定である』と記されているので(この上杉景勝宛の石田三成書状は伝存していない)、7月15日の時点では、石田三成は失脚中の状態から脱して公然と反家康の動きをしていることになり、実質的にこの時点で奉行に復帰していたと見なしてもよいと思われる」と。
 この書状には、二大老、三奉行、小西行長、大谷吉継、石田三成、島津義弘が反家康で結束していることが記されています。そういうことから見ても、この書状の2日後に出された「内府ちかひの条々」の作成に三成が大きく関わっていたことは充分ありうるように思えます。

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