山路興造氏の講演「藤原氏の拓いた宇治ー離宮祭を中心にー」 京都探訪390 太閤堤の石積み護岸の復元

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 6日、「お茶と宇治のまち歴史公園」(太閤堤跡史跡公園)内の施設「茶づな」で行われた山路興造氏の講演「藤原氏の拓いた宇治ー離宮祭を中心にー」を聴きに行きました。宇治は藤原氏の別荘地になって発展したところですが、それを宇治神社の祭礼である「離宮祭」の変遷をたどることによって明らかにされていました。平安時代に、それまで宇治の住民の氏神であった宇治神社が、平等院の鎮守とされ、平等院の「離宮祭」として盛大に行われるようになったのは、藤原氏の助力によるものでした。それが南北朝時代になると、藤原氏の力が衰え、宇治上社(宇治神社)と宇治下社が、それぞれの地域の住民によって祀られるようになり、祭礼も替わりました。
 藤原氏が宇治に目を付けたのは、平安京と平城京を結ぶ交通の要衝としてだけでなく、風光明媚な土地だったからで、当時は宇治川が巨大な巨椋(おぐら)池に流入していました。後に秀吉が伏見城を築いたのは、宇治川と巨椋池の景色を楽しむ意味合いもありました。巨椋池が埋め立て今はなくなってしまったのは、なんとも残念でなりません。
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 「お茶と宇治のまち歴史公園」(太閤堤跡史跡公園)の北エリアに、太閤堤の石積み護岸が復元されています。GRC(ガラス繊維をコンクリートに混ぜたもの)パネルと粘板岩・松杭(採石場から切り出したもの)で正確に復元されています。この2メートル下に実際の護岸が保存されています。
 秀吉が作った太閤堤は宇治川から伏見城まで続く、大規模なものでしたが、その遺構が初めて発見されたのは、2007年のことです。太閤堤は水運を整えて物資の輸送などを促進するためのものだったのでしょうが、秀吉流の権力を見せつける狙いもあったと思われます。

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