石田三成の実像3366 番組「号外!日本史スクープ砲 関ヶ原の戦いはウソだらけ」4 家康と輝元の和談を吉川広家が独断で成立させたとする高橋陽介氏の見解 広家は家康に屈服したとする白峰旬氏の見解
テレビ番組「号外!日本史スクープ砲 関ヶ原の戦いはウソだらけ」の中で、高橋陽介氏は、関ヶ原の戦いの前日に徳川家康と毛利輝元の間で和談が成立していたが、これは吉川広家が独断でしたことで、輝元がこの和談成立を知るのは後日のことだと指摘されていました。
徳川家康と毛利輝元の間で和談が成立していたことを示す史料として、「毛利家文書」にある次のような記述が番組では紹介されていました。 「一、毛利輝元に対して家康が手を出さない。
一、吉川広家が家康に忠節を尽くす上は家康が手を出さない」と。
また輝元が後日和談成立のことを知ったことを示す史料として、関ヶ原の戦いの2日後に、毛利輝元が吉川広家に送った書状が挙げられ、その書状には次のようなことが書かれていると紹介されていました。
「毛利家が存続するのはあなたの働きによるものです。結局家臣であるあなたに主人である私が頼り切ってしまうのはあべこべのようで、このように滅多にない状況になってしまいました。とにかく和談が成立してうれしいかぎりです」と。
広家が戦いの前日に、独断で家康と戦わないと決めたというのは白峰旬氏も同意見ですが、それは「和談」や「和睦」といったものではなく、家康に「降伏」したと指摘されています。すなわち、家康率いる徳川の大軍が、南宮山を襲おうという動きに出たので、広家は「家康直率の徳川川本隊の攻撃を恐れて家康に『命乞い』をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった」と。
9月17日付の吉川広家自筆書状案の中で、14日付の広家ら宛の井伊直政・本多忠勝連署起請文の一か条目に、「家康が毛利輝元との和睦に異論はないと保証していると述べ、自分が家康と輝元との『和平を取り付けた』と主張している」が、白峰氏は「この『和睦』について、広家による『捏造』の可能性がある」と指摘されています。その根拠として、次のように述べられています。
「井伊直政・本多忠勝連署起請文を見ても、広家が言うような、毛利輝元と家康が『和睦』したとする文言は全く見当たらないからだ。冷静に考えれば、そもそも毛利家の総意を代表していない広家が独断で、当主の輝元や他の毛利家家臣に断りなく、家康と和睦を結べるはずがない」と。
広家がそのように捏造した理由として、「この和睦の功績はー実際にはこの時点では和睦は調っていないがー自らの尽力によるものであり、自分が和睦成立の立役者であるかのように話を捏造することで、家康との政治的パイプがあることを誇示して、戦後の毛利家中での主導権を掌握する狙いがあったと思われる」と。
大坂城で関ヶ原の戦いの敗報を知った輝元は大きな衝撃を受けたはずで、三成や安国寺恵瓊などに頼れなくなったと知った上は、生き残りをはかるために家康とのバイプ役を果たしている広家にすがらざるを得ないと判断して、広家宛てに上記の書状を出したのだと思われます。
徳川家康と毛利輝元の間で和談が成立していたことを示す史料として、「毛利家文書」にある次のような記述が番組では紹介されていました。 「一、毛利輝元に対して家康が手を出さない。
一、吉川広家が家康に忠節を尽くす上は家康が手を出さない」と。
また輝元が後日和談成立のことを知ったことを示す史料として、関ヶ原の戦いの2日後に、毛利輝元が吉川広家に送った書状が挙げられ、その書状には次のようなことが書かれていると紹介されていました。
「毛利家が存続するのはあなたの働きによるものです。結局家臣であるあなたに主人である私が頼り切ってしまうのはあべこべのようで、このように滅多にない状況になってしまいました。とにかく和談が成立してうれしいかぎりです」と。
広家が戦いの前日に、独断で家康と戦わないと決めたというのは白峰旬氏も同意見ですが、それは「和談」や「和睦」といったものではなく、家康に「降伏」したと指摘されています。すなわち、家康率いる徳川の大軍が、南宮山を襲おうという動きに出たので、広家は「家康直率の徳川川本隊の攻撃を恐れて家康に『命乞い』をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった」と。
9月17日付の吉川広家自筆書状案の中で、14日付の広家ら宛の井伊直政・本多忠勝連署起請文の一か条目に、「家康が毛利輝元との和睦に異論はないと保証していると述べ、自分が家康と輝元との『和平を取り付けた』と主張している」が、白峰氏は「この『和睦』について、広家による『捏造』の可能性がある」と指摘されています。その根拠として、次のように述べられています。
「井伊直政・本多忠勝連署起請文を見ても、広家が言うような、毛利輝元と家康が『和睦』したとする文言は全く見当たらないからだ。冷静に考えれば、そもそも毛利家の総意を代表していない広家が独断で、当主の輝元や他の毛利家家臣に断りなく、家康と和睦を結べるはずがない」と。
広家がそのように捏造した理由として、「この和睦の功績はー実際にはこの時点では和睦は調っていないがー自らの尽力によるものであり、自分が和睦成立の立役者であるかのように話を捏造することで、家康との政治的パイプがあることを誇示して、戦後の毛利家中での主導権を掌握する狙いがあったと思われる」と。
大坂城で関ヶ原の戦いの敗報を知った輝元は大きな衝撃を受けたはずで、三成や安国寺恵瓊などに頼れなくなったと知った上は、生き残りをはかるために家康とのバイプ役を果たしている広家にすがらざるを得ないと判断して、広家宛てに上記の書状を出したのだと思われます。
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