石田三成の実像3365 白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」30 「8月25日付長束正家・増田長盛・石田三成・徳善院玄以・毛利輝元・宇喜多秀家宛上杉景勝書状」3
白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」の中で、「8月25日付長束正家・増田長盛・石田三成・徳善院玄以・毛利輝元・宇喜多秀家宛上杉景勝書状」の第五条、第八条の内容を検討されていますが、拙ブログで前述したように、二大老・四奉行サイドから上杉景勝への情報提供の内容については、連署状の記載から、「7月 21日に家康が江戸を出陣した」こと、「7月 26日、同月 27日頃に家康が白河(白河は上杉領)に向けて出陣することが決まっていた」こと、「(家康は)上方の『変化』の状況に『動転』した」こと、「家康が上杉討伐の延期に追い込まれたこと」を指していると指摘され、それぞれの事柄について検討を加えられています。
まず「7月 21日に家康が江戸を出陣した」ことについては、白峰氏は「このことは情報として正確である」と指摘されています。
21日に家康が江戸を出立したという点については、小山評定肯定論者も否定論者も意見は一致しています。
次に「7月 26日、同月 27日頃に家康が白河(白河は上杉領)に向けて出陣することが決まっていた」ことについては、「家康サイドの史料では見られないことであり、このことが事実であれば、上杉討伐の延期を決定する場合は、7月25日以前に決定しなければならないことになる。本稿では、宇都宮における家康による上杉討伐の延期の決定の月日を7月23日と推定したが、このことは、上杉討伐の延期を決定する場合は、7月25日以前に決定しなければならない、という点と日付的に整合する」と指摘されています。
「(家康は)上方の『変化』の状況に『動転』した」ことについては、次のように解説されています。
「これは、具体的には、7月 17日に大坂三奉行が『内府ちかひの条々』を出して家康を弾劾し、家康を豊臣公儀から放逐したことを示して
いる。
このことによって、上杉討伐の正統性が失われ、家康は上杉討伐の延期に追い込まれたわけであるが、『日葡辞書』によれば『動転(ドゥテン)』とは『取り乱しあわてること、または、びっくりすること』という意味であるので、家康は『内府ちかひの条々』が出されたことに相当の衝撃を受け予想外の事態に追い込まれたことを示している」と。
二大老・四奉行によって「内府ちかひの条々」が出されたことは、家康の公儀性が失われ、新たな豊臣公儀が発足したというのは、白峰氏の見解ですが、こういう見方は研究者の間で広まっているように感じます。小説やドラマ、歴史番組では、相変わらず関ヶ原の戦いを東軍対西軍、あるいは家康対三成という構図で捉えることが後を絶ちませんが、そういう旧態依然たる捉え方は見直す必要性があるように感じます。
「家康が上杉討伐の延期に追い込まれたこと」については、次のように解説されています。
「家康が上杉討伐の延期に追い込まれたことを、景勝は『𢘤𢘤敗軍』と記している。『日葡辞書』によれば『敗軍(ハイグン)』とは『軍隊が打ち破られること』という意味であるので、家康が上杉討伐という軍事オプションを発動できなかったことは、すなわち、家康にとって全面的な軍事的敗北を意味する、と景勝が認識していたことになる。」と。
家康が8月中は江戸を動かなかったのは、動かないのではなく、公儀性を失われて動けなかったという見解を白峰氏は示されていますが、上杉攻めから関ヶ原の戦いまでの流れは家康の思惑通りに進んだとするのが、長い間、通説でしたが、これも家康神話・徳川史観に基づくもので、この点も見直す必要があるように思います。
まず「7月 21日に家康が江戸を出陣した」ことについては、白峰氏は「このことは情報として正確である」と指摘されています。
21日に家康が江戸を出立したという点については、小山評定肯定論者も否定論者も意見は一致しています。
次に「7月 26日、同月 27日頃に家康が白河(白河は上杉領)に向けて出陣することが決まっていた」ことについては、「家康サイドの史料では見られないことであり、このことが事実であれば、上杉討伐の延期を決定する場合は、7月25日以前に決定しなければならないことになる。本稿では、宇都宮における家康による上杉討伐の延期の決定の月日を7月23日と推定したが、このことは、上杉討伐の延期を決定する場合は、7月25日以前に決定しなければならない、という点と日付的に整合する」と指摘されています。
「(家康は)上方の『変化』の状況に『動転』した」ことについては、次のように解説されています。
「これは、具体的には、7月 17日に大坂三奉行が『内府ちかひの条々』を出して家康を弾劾し、家康を豊臣公儀から放逐したことを示して
いる。
このことによって、上杉討伐の正統性が失われ、家康は上杉討伐の延期に追い込まれたわけであるが、『日葡辞書』によれば『動転(ドゥテン)』とは『取り乱しあわてること、または、びっくりすること』という意味であるので、家康は『内府ちかひの条々』が出されたことに相当の衝撃を受け予想外の事態に追い込まれたことを示している」と。
二大老・四奉行によって「内府ちかひの条々」が出されたことは、家康の公儀性が失われ、新たな豊臣公儀が発足したというのは、白峰氏の見解ですが、こういう見方は研究者の間で広まっているように感じます。小説やドラマ、歴史番組では、相変わらず関ヶ原の戦いを東軍対西軍、あるいは家康対三成という構図で捉えることが後を絶ちませんが、そういう旧態依然たる捉え方は見直す必要性があるように感じます。
「家康が上杉討伐の延期に追い込まれたこと」については、次のように解説されています。
「家康が上杉討伐の延期に追い込まれたことを、景勝は『𢘤𢘤敗軍』と記している。『日葡辞書』によれば『敗軍(ハイグン)』とは『軍隊が打ち破られること』という意味であるので、家康が上杉討伐という軍事オプションを発動できなかったことは、すなわち、家康にとって全面的な軍事的敗北を意味する、と景勝が認識していたことになる。」と。
家康が8月中は江戸を動かなかったのは、動かないのではなく、公儀性を失われて動けなかったという見解を白峰氏は示されていますが、上杉攻めから関ヶ原の戦いまでの流れは家康の思惑通りに進んだとするのが、長い間、通説でしたが、これも家康神話・徳川史観に基づくもので、この点も見直す必要があるように思います。
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