石田三成の実像3340  白峰旬氏「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」23 7月27日付秋田実季宛榊原康政書状をめぐって

白峰旬氏の「『小山評定』論争の最前線ー家康宇都宮在陣説を中心にー」の中で、7月27日付秋田実季宛榊原康政書状について論じられていますが、まず白峰氏の前稿でその書状の内容についての次のような見解を改めて示されています。
 「①榊原康政は秋田実季から来た使札の内容を家康に申し聞かせた、②この度、『此方』へ下ってきた上方衆に同道して家康は上洛する、③『此表』の仕置は徳川秀忠に申し渡す、④榊原康政はこの度は『此方』に残し置かれることになった、とまとめた。
 そして、上記③の『此表』と上記④の『此方』は宇都宮を指すことは明らかであるので、上記②の『此方』も宇都宮を指すことになり、上杉討伐のために上方から下ってきた諸将は、宇都宮に集結しており、諸将は宇都宮から反転西上することになった、と指摘した」と。
 この指摘に対して、藤井讓治氏は「③『此表』、④『此方』=『小山』としても矛盾はない」と反論されています。
 それに対して、白峰氏は次のように再反論されています。
 「③『此表』、④『此方』=『小山』というように解釈すると、秀忠は小山の仕置を家康から申し渡され、榊原康政は小山に残し置かれることになった、ということになる。
 また、上記の榊原康政書状の文脈からすると、②の『此方』と④の『此方』は場所として一致しないといけないので、この点からも、藤井論文の解釈では④『此方』=『小山』という解釈になり、榊原康政は小山に残し置かれることになった、ということになる。
 しかし、実際には、秀忠は宇都宮に差し置かれた(『8月7日付伊達政宗宛徳川家康書状』、『8月12日付伊達政宗宛徳川秀忠書状』、『8月28日付黒田長政宛徳川秀忠書状写』)のであるから、秀忠は小山の仕置を家康から申し渡された、とする解釈は整合しないし、秀忠が宇都宮に差し置かれたのに、秀忠の側近部将である榊原康政が秀忠から離れて小山に残し置かれた、とするのは想定し難い。
 またこの書状について、その内容などから、「秋田実季から榊原康政に対して出された書状への返信であり、秋田実季は榊原康政がいる場所をわかっていて、その場所に対して書状を出したはずである。よって、この書状では『此方』、『此表』というように具体的地名を書かずに、指示代名詞(『此方』、『此表』)を書いたのであろう」と指摘されています。
 さらに、白峰氏は秋田実季が書状を榊原康政に対して、「上杉討伐の徳川方の本営である宇都宮(城)に向けて出したはずである」と指摘されていますが、「宇都宮が上杉討伐の徳川方の本営であったことは、細川忠興が7月 20日に宇都宮に着陣し、森忠政が7月 21日に宇都宮に着陣し、家康は宇都宮へ着陣することを予定していたことから明らかである」とその根拠が示されています。
 家康が「小山」に在陣していなかったことについては、次のように記されています。
「不思議なのは、家康書状に『小山』という具体的地名の記載が1例を除いて出てこない点である。その1例である『7月28日付蘆名盛重宛徳川家康書状』についても、本稿では上述のように、7月28日の時点で家康の小山在陣を意味するものではない、と指摘した。
 こういうことから、白峰氏は「秋田実季が小山に向けて書状を出したとは想定し難い。以上のように藤井論文の指摘に対して反論した」と結論づけられています。
 白峰氏の考察は論理的で、説得力があり、十分うなずける内容です。今までわれわれは「小山評定ありき」ということにとらわれ過ぎてきたのではないかという気がします。もっとも、藤井氏が白峰氏の見解に対してどういう反論をさらに展開されるか、それに耳を傾ける必要がありますが。
 ちなみに、三成が伏見城攻撃に加わるのは、7月29日のことですから、27日の時点で、三成は佐和山にいたはずです。

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