石田三成の実像3239 中野等氏の講演「石田三成の遺したもの 秀吉と三成」16「『唐入り』と三成」3 講和交渉に尽力・朝鮮半島から帰還

 中野等氏の講演「石田三成の遺したもの 秀吉と三成」の「『唐入り』と三成」の中で、「高麗より帰朝人数渡海番折の事」(『山崎家文書』)という史料が取り上げられていました。秀吉が文禄2年7月29日に発したもので、朝鮮半島から帰還する諸将の順番や組編成、その人数が記されており、総数は5万近くに及びます。三成は他の奉行衆と同じく4番隊に組み入れられ、三成隊の人数は1640人と記されています。
 この史料は中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも取り上げられ、その文書が出された背景・状況について次のように説明されています。
 「明との講和交渉がはじまり、懸案であった晋州城の陥落という状況のなかで、5万におよぶ軍勢に帰還を許すということは、秀吉自身の朝鮮渡海が当面なくなったという事実を示唆しており、それはとりもなおさず秀吉が名護屋にとどまる必要もなくなったことを意味している」
 「5万におよぶ軍勢の帰還にあたっては相当な混乱も予想されるが、これをできるかぎり短期間に効率よく日本へ搬送することを目的として、釜山・対馬府中・壱岐虫生津(むしょうづ)の各所に規定数の輸送船が配備される。釜山には対馬豊崎まで6136人分の輸送を可能とする150艘の船が用意されることになっている。(中略)対馬府中や壱岐にも廻船が糾合され、周到な配船体制のもと将兵の速やかな帰還が計画された」と。
 明の使節が日本との講和交渉のため、小西行長・増田長盛・石田三成・大谷吉継と共に名護屋に到着したのが5月13日のことで、三成らは一旦釜山に戻ります。秀吉は6月28日付で「大明日本和平条件」を提示し、明の使節はそれを携えて朝鮮半島に戻ります。その時、三成らは明の使節と共に釜山にまた戻っています。
  秀吉はそういう講和交渉をしながら、その一方で晋州城総攻撃を命じ、6月29日に陥落させます。和戦両様の作戦を取っていたわけですが、ひとまず晋州城を落としたことによって、講和交渉の状況の行方を見守るべく、倭城の普請を行い、在番の兵を置いて、その他の兵は日本に帰還させるわけです。三成は最後の4番隊に組み込まれていることから、奉行として帰還の段取りを調え、それを見届けた上で引き上げたのでしょう。三成が名護屋に戻ったのは9月23日のことです。
 三成はその後、朝鮮半島に渡ることは二度とありませんでした。こう見てくると、三成ら奉行衆や小西行長は、明・朝鮮との講和に中心的に関わっていたことが分かります。彼らは現地の様子をつぶさに見て、戦いがいかに不毛であり、兵站が続かず苦戦することを見抜いていましたから、一刻も早い講和を望んでいました。この戦いの不毛さ・悲惨さをつぶさに記し、年内に明に討ち入ることは不可能だと指摘した三成ら三奉行の書状が中野氏の講演会で取り上げられていることは前述しましたが、三成らが講和交渉に尽力するようになったのも当然だということがよくうかがえる書状です。

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