京都探訪369 本法寺・ドラマ「京都人の密かな愉しみ」にも出てきた桜・長谷川等伯の拠点・本阿弥光悦手植えの松 石田三成の実像3230 安部龍太郎氏の小説「等伯」のおかしな点(再録)



この桜は本堂の東側にある大きな木で、満開の桜は壮観で華やかで優美でした。桜の木は境内に何本もあり、多宝塔や摩利支天堂とよく調和した、えも言われぬ素晴らしい雰囲気を醸し出していました。見物客が絶えることはありませんでしたが、それほど混んでいず、ゆっくり桜を楽しめましたし、穴場スポットだと言えます。


安部龍太郎氏の小説「等伯」について、9年前に拙ブログで何回かにわたって感想を記したことがあり、その一部を改めて紹介します。
内容的には等伯の波瀾万丈な人生(むろん、フィクションも盛り込みながらですが)、芸術家としてのすさまじい生き様が描かれていて、迫力もあり、読者を引き込む魅力にも富んでいるのですが、三成の描き方が徳川史観に基づいた従来通りの、策謀家、奸臣であるという捉え方がされており、失望しました。小説で描かれている、三成の行動が事実であるかのように思われる向きもあるのではないでしょうか。
この小説では、等伯と親しい千利休を切腹に追い込んだのは三成という捉え方がされており、そのために三成がいろいろと利休周辺のことを調べるというふうに描かれています
大徳寺三門に置かれている木像のことが問題となっているという知らせが、等伯のところに伝わったのが天正19年閏1月22日のことだと小説では書かれています。さらに何日かして、前田玄以が等伯に次のように伝えたということになっています(この小説では、等伯が信長による延暦寺焼き討ちの際、幼い玄以を助けたということで、二人は親しいという関係になっています)。三成は「この機会に利休どのをつぶそうと、あらゆるところに手を回して落度をさがし」、「木像の問題ばかりではな」く、「茶道具を法外な値段で売ったとか、鑑定のために預かった道具を横領したとか、利休に不利な証言を躍起になってかき集めている」と。
しかし、これは三成がずっと京にいたという前提の上で成り立つことであり、実際の三成は前年12月16日、一揆鎮圧のため奥州に出向いています。(中略)都に戻ってきた日付ははっきりしませんが、中野等氏は「『時慶(記)』2月15日条に『石田治部少輔本門に一礼アリ』とあり、2月中旬までには帰京していたようである」と記されています。
(中略)利休が堺に追放を命じられるのは2月13日ですから、その時点で三成は京にいたとしても、戻った直後の時期であり、むろん、それまでに利休のことを調べ、追い落としを謀る時間的な余裕は全くありませんでした。
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