石田三成の実像3154 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」154 渡邊大門氏「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」12 白峰氏「慶長5年8月22日の米野の戦い、同月23日の瑞龍寺山砦攻めについての一柳家の首帳に関する考察」2 米野の戦い

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、渡邊大門氏の「小早川秀秋、黒田長政、福島正則の戦い」の中で、関ヶ原の戦いの3週間間程前に行われた岐阜城攻防戦について具体的に述べられていますが、その続きです。
 「秀信の作戦は岐阜城を拠点とし、味方からの援軍の到着を待って、東軍を挟み撃ちにするものであったという。秀信の家臣の一部からは岐阜城に残存兵力を集結させ、籠城に徹すべきだという献策もなされたが、却下された。改めて秀信は態勢を立て直すべく、岐阜城に自身に加えて弟の秀則が入り、岐阜城へ向かう稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦と登山口四ヵ所に兵を分散し、守備を固めたのである。
 8月22日の早朝、池田輝政の軍勢は、河田(愛知県一宮市)を経て木曽川を渡ろうとした。百々綱家ら織田方の率いる軍勢は鉄砲隊で応戦したが、池田方の軍勢は木曽川を越えることに成功した。勢いに乗った池田方は、同日の昼頃には百々綱家らの軍勢と米野村(岐阜県笠松町)で交戦し勝利を得たのである」と。
 白峰氏の「慶長5年8月22日の米野の戦い、同月23日の瑞龍寺山砦攻めについての一柳家の首帳に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第23号所載)の中で、米野の戦いについて、その首帳と詳しい戦闘状況に関する記載をもとに、次のようなことが指摘されています。
 「池田輝政は中洲から渡河して早くも一戦を始めるように見えたので、それに続いていては敵との戦いに一番乗りできなかったため、一柳直盛は少し下流に移動して、そこから渡河して敵の軍勢(織田秀信方の軍勢)に突っ込んだ。このようにして、一柳直盛は織田秀信方の軍勢との戦いに一番乗りができた」
 「織田秀信方の軍勢は米野(つまり木曽川の堤の下)で多くの人数で一柳家家臣の攻撃を待ち構えていたことがわかる。そして、堤を駆けあがってきた一柳家臣を堤の下へ誘い込んで、多くの人数で取り囲んで突いたことがわかる。
 つまり、米野の戦いの緒戦では、一番目、二番目、三番目に敵陣(=織田秀信方の軍勢)へ突っ込んだ一柳家の家臣は、本人が討死して被官も討死した(一番目に突入した大塚権大夫)、本人が深手を負い後日死亡した(二番目に突入した服部孫惣)、本人が深手を負い足軽小頭(首帳1では組子)が討死した(三番目に突入した藤野久左衛門)、というケースになる。
 このような結果になったのは、木曽川の渡河のあと、米野の堤を駆け上がり、堤の下に密集する敵陣(=織田秀信方の軍勢)へおびき入れられたため、敵に包囲されて四方より突きかかられたので、この一柳家の家臣で一番目、二番目、三番目に敵陣(=織田秀信方の軍勢)へ突っ込んだ時点では、一柳家の軍勢は追い付いていなかったので援護もできなかったからであると考えられる。
 そして、一柳家の軍勢が米野の戦闘場所へ大勢追い付いて、はじめて一番首を取った。その後は首取りの記載が続いている」などと。
 一柳が一番乗りを果たせたのは、地元の地理に詳しかったためだと思われます。緒戦は織田方に誘い込まれた一柳隊に犠牲者が出ますが、一柳隊の援軍が追い付いてきたことによって、戦況は一変し、一柳隊が優勢になったわけです。

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