大阪府立茨田高校の元同僚との京都散策4 茨田高校の閉校を知った衝撃と寂しさ・かつての五条通は今の松原通・五条大橋での義経と弁慶の出会いと戦いは創作
2年ぶりに大阪府立茨田高校の元同僚と会って、茨田高校が令和7年に閉校になるという話を初めて聞きました。宇治に住んでいると、大阪の学校の情報はあまり入ってこないので、全く知りませんでした。今回会ったメンバーは、開校した初年度か2年目に赴任した者ばかりで、しかもみんな新卒でしたから、それぞれ特別な思いがありますし、私もそれを聞いた時にはショックで、寂しい気がしました。3年続けて定員割れになった学校は閉校の対象になるというルールは知っていましたが、茨田高校がそういう状況にあるとは知りませんでした。
私が赴任したのは、創設2年目でしたが、 当時は教員も生徒も学校を作り上げていくという意欲に燃えていたような気がします。教員もベテランの人は約半数だけで、残り半数は新任でした。私などは、授業のやり方などがよくわからず、試行錯誤を繰り返していましたし、同じ新任の人々とよく話をし、相談もし合いました。しかし、振り返ればいい勉強になりましたし、茨田高校で培ったものは、その後の教員生活に大いに役立ったと総括しています。
写真は五条大橋から鴨川の北を向いて撮ったものです。松原橋が見えます。秀吉の時代までは、松原通が本来の五条通でした。それを秀吉が方広寺大仏殿に参詣するには不便だというので、五条通を今の場所に替え、五条大橋を付け替えました。かつては松原橋のところに、五条大橋が架かっていたわけです。
写真は五条大橋のそばにある「牛若ひろば」です。牛若丸(義経)と弁慶が出会って戦ったのが五条大橋とされていますし、五条大橋には義経と弁慶が戦っている像も建っています。しかし、二人が戦ったとされる五条大橋はここではなく、松原橋のところだったわけです。もっとも、義経のことを記した「義経記」には二人が出会った場所は五条天神社と記されており、それが五条大橋という場所になったのは御伽草子や謡曲の「橋弁慶」によってであり、いずれにせよ歴史的根拠はありません。そもそも弁慶という人物自体、創作的な存在で、現在知られているような活躍をしたかはわかりませんし、多分に脚色されているものと思われます。もっとも、弁慶が義経の郎党であったことは、「吾妻鏡」などに記されているので、実在していたのは確かでしょうが、弁慶の実像がどうであったのかは全くわからないのが実状です。
私が赴任したのは、創設2年目でしたが、 当時は教員も生徒も学校を作り上げていくという意欲に燃えていたような気がします。教員もベテランの人は約半数だけで、残り半数は新任でした。私などは、授業のやり方などがよくわからず、試行錯誤を繰り返していましたし、同じ新任の人々とよく話をし、相談もし合いました。しかし、振り返ればいい勉強になりましたし、茨田高校で培ったものは、その後の教員生活に大いに役立ったと総括しています。


この記事へのコメント
茨田高校の3期生です。友人からの年賀状で閉校を知りました。当時先生方も生徒のみんなもよい学校を作り上げようという気持ちに満ち溢れていました。先生方も充実されていたのだと思うと、とてもうれしいです。