石田三成の実像3057 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」69 太田浩司氏「石田三成の戦い」5 8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛三成書状
白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、太田浩司氏の「石田三成の戦い」の中で、7月末から9月に至る三成の戦略について、数通の三成書状から分析されていますが、8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛三成書状について次のように記されています。
「六ヶ条目では、家康に従って上方へ向かった者たちが、『尾・三』つまり、尾張国と三河国に戻ってきているので、それぞれ西軍に味方するかを確認していると述べる。さらに、七ヶ条目では8月1日の伏見城攻撃で鳥居元忠を討ち取ったことを述べ、八ヶ条目では大坂での細川ガラシャ殺害について述べた後、十ヶ条目では岐阜城主の織田秀信(信長の孫・三法師)と協議し、尾張に軍勢を出したことを記す。そこで、清須城主の福島正則が、未だ西軍か東軍かの態度を明確にしていないので、正則の説得がなったら三河に出陣し、もし福島が味方しないようだったら、伊勢に遣わした軍勢とともに、その居城である清須城を攻撃すると述べている。
三成としては、秀吉股肱の臣である正則の西軍参加は、濃尾地方の中心である清須城主という地位もあって、大いに期待していたようである。しかし、正則は8月4日付の家康書状(『記録御用書本』)によって、尾張国内の年貢徴収を命じられ、さらに8月10日付の家康書状で、徳永寿昌とともに上方への通路確保を命じられているように、三成の説得工作が行われている最中も、東軍方との連絡を密にしていた。つまり、三成の説得工作が功を奏す可能性はゼロに近い状態だったのである(桐野 2012)」と。
結局、「家康に従って上方へ向かった者たち」たちは、三成や輝元ら豊臣公儀方に付かず、そのまま家康の味方に付き、福島正則も同様だったわけで、もっと早く豊臣公儀方が彼らに見切りをつけて、清須城攻めをはじめとして攻勢をかけていたら、状況も変わっていたかもしれません。しかし、美濃方面に展開していた豊臣公儀軍が尾張に攻め込むには、絶対的に軍勢の数が足りませんでした。伊勢方面、北陸方面へも豊臣公儀軍は展開しており、彼らが実際、美濃方面に来るのは、9月初めのことです。上記の書状では、伊勢方面軍も投入すると述べていますが、伊勢平定をまずしなければならず、すぐには無理な状況だったと思われます。
また豊臣公儀の立場として、いきなり攻めることはできず、まず交渉から始めなければいけなったのではないでしょうか。福島正則に対してもなまぬるい対応だったと云えますが、三成は正則を豊臣公儀側に取り込める可能性があると考えていたのでしょうし、そこに甘さがあったという捉え方もできます。太田氏の同書でも、「尾張国の動向を左右した清須城主の福島正則が味方すると想定していたことが、三成最大の誤算であり、敗因だったと考えられる」と指摘されています。確かに、その指摘は当たっていますが、そのことは逆に三成と正則は仲が悪かったという通説への反証になるのではないでしょうか。本当に仲が悪かったら、三成は正則に期待をかけることはなかったと思われるのですが。
「六ヶ条目では、家康に従って上方へ向かった者たちが、『尾・三』つまり、尾張国と三河国に戻ってきているので、それぞれ西軍に味方するかを確認していると述べる。さらに、七ヶ条目では8月1日の伏見城攻撃で鳥居元忠を討ち取ったことを述べ、八ヶ条目では大坂での細川ガラシャ殺害について述べた後、十ヶ条目では岐阜城主の織田秀信(信長の孫・三法師)と協議し、尾張に軍勢を出したことを記す。そこで、清須城主の福島正則が、未だ西軍か東軍かの態度を明確にしていないので、正則の説得がなったら三河に出陣し、もし福島が味方しないようだったら、伊勢に遣わした軍勢とともに、その居城である清須城を攻撃すると述べている。
三成としては、秀吉股肱の臣である正則の西軍参加は、濃尾地方の中心である清須城主という地位もあって、大いに期待していたようである。しかし、正則は8月4日付の家康書状(『記録御用書本』)によって、尾張国内の年貢徴収を命じられ、さらに8月10日付の家康書状で、徳永寿昌とともに上方への通路確保を命じられているように、三成の説得工作が行われている最中も、東軍方との連絡を密にしていた。つまり、三成の説得工作が功を奏す可能性はゼロに近い状態だったのである(桐野 2012)」と。
結局、「家康に従って上方へ向かった者たち」たちは、三成や輝元ら豊臣公儀方に付かず、そのまま家康の味方に付き、福島正則も同様だったわけで、もっと早く豊臣公儀方が彼らに見切りをつけて、清須城攻めをはじめとして攻勢をかけていたら、状況も変わっていたかもしれません。しかし、美濃方面に展開していた豊臣公儀軍が尾張に攻め込むには、絶対的に軍勢の数が足りませんでした。伊勢方面、北陸方面へも豊臣公儀軍は展開しており、彼らが実際、美濃方面に来るのは、9月初めのことです。上記の書状では、伊勢方面軍も投入すると述べていますが、伊勢平定をまずしなければならず、すぐには無理な状況だったと思われます。
また豊臣公儀の立場として、いきなり攻めることはできず、まず交渉から始めなければいけなったのではないでしょうか。福島正則に対してもなまぬるい対応だったと云えますが、三成は正則を豊臣公儀側に取り込める可能性があると考えていたのでしょうし、そこに甘さがあったという捉え方もできます。太田氏の同書でも、「尾張国の動向を左右した清須城主の福島正則が味方すると想定していたことが、三成最大の誤算であり、敗因だったと考えられる」と指摘されています。確かに、その指摘は当たっていますが、そのことは逆に三成と正則は仲が悪かったという通説への反証になるのではないでしょうか。本当に仲が悪かったら、三成は正則に期待をかけることはなかったと思われるのですが。
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