石田三成の実像3056 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」68 太田浩司氏「石田三成の戦い」4 7月晦日付の真田昌幸宛三成書状 外岡慎一郎氏「大谷吉継の戦い」4  同日付の昌幸・信繁宛吉継書状

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の、太田浩司氏の「石田三成の戦い」の中で、7月末から9月に至る三成の戦略について、数通の三成書状から分析されていますが、まず7月晦日付の真田昌幸宛三成書状について次のように記されています。
 「この書状の二ヶ条目で、三成と昌幸が大坂城中にともにいた際、家康打倒の計画を明かさなかったことを詫びている。城内では、他の大名の心理を読むことができず、発言はできなかったが、昌幸の豊臣家に対する忠実な立場を思えば、相談しなかったことは後悔していると記す。また、四ヶ条目では上方(近畿地方)から上杉攻めに加わった武将が、三成らの挙兵を聞いて戻ってきているが、『尾・濃』において『人留(ひとどめ)』して、秀頼への忠誠心を確かめて通行を許していると述べる。つまり、三成としては、尾張国・美濃国までを西軍の勢力範囲と考え、このなかに入ってくる武将については、敵か味方かを問いただしていたことが知られる」と。
 この書状については、今まで三成本には必ずといっていいほど取り上げられる書状であり、拙ブログでも何回か紹介してきました。
 白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」にも掲載されていますが、この書状の中の「去る(7月)21日の御使札が、(7月)27日に近江佐和山へ到来して拝見したことを伝える」という内容について、「7月27日の時点で、石田三成は近江佐和山にいたことがわかる」と注釈されています。三成は27日に昌幸からの書状を見た2日後に、佐和山から出て伏見城攻めに向かい、その後、大坂城に入城してすぐに、昌幸宛の書状を書くわけです。
 同日に、大谷吉継も昌幸・信繁に宛てて書状をしたためていますが、この吉継書状については、外岡慎一郎氏の「大谷吉継の戦い」の中で、次のように記されています。
 「真田父子の妻子は吉継が預かっていること、17日に家康の留守居役を追い出し毛利輝元が大坂城に入ったことなどを伝え、秀頼を共に支える同志としての意思を確かめる内容である」と。
 この吉継書状も、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」に掲載されており、その内容について次のように記されています。
 「家康は去々年(慶長3年)以後、(家康の)御仕置が太閤様(秀吉)の御定に背き、(このままでは)秀頼様の『御成立』ができない、とのことで、年寄衆(三奉行)・毛利輝元・宇喜多秀家・島津義弘、このほか『関西之諸侍』が『一統』をもって、御仕置を改めたことを伝える」と。
 これらの文言から、吉継も新たな豊臣公儀の中枢的な人物であったことがわかります。昌幸に対して、29日付で長束・増田・前田の三奉行、宇喜多秀家、毛利輝元、30日付で三成、吉継、8月1日付で長束・前田の二奉行がそれぞれ書状を出しており、吉継も彼らとほぼ同等の立場であったことがわかります。

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