石田三成の実像2709 白峰旬氏「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」15
白峰旬氏の「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」(2019年発行『別府大学大学院紀要』第21号所収)の中で、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で取り上げられている「厚狭毛利家文書」の六通の毛利輝元書状のうち、光成氏がA文書(46号文書)と呼んでいる書状も、反石田三成訴訟騒動があった慶長4年閏3月のものではなく、翌年の6月上旬の家康による上杉攻め直前の時のものだと推測されています。光成氏の同書でのA文書の現代語訳の続きです。
「一、上様(=豊臣秀吉)が言い残されていたとのことで、昨日、徳川家康と上杉景勝の縁組について双方の使者として増田長盛が仲介者となって整ったそうです。内心はそのような縁組には賛成できないのです。公儀のことは上様のお考えどおりにすると上杉景勝は申されたそうですが、これも信用できないことです。ともかく、すでにこちらは弱い状況になっているので、ここはよく考えて判断しなければならないところです」と。 このうち、「縁組」にあたる原文は「縁辺」ですが、白峰氏の見解では、「調停の話」、また「上様」は「豊臣秀吉」ではなく、「豊臣秀頼」と捉えられ、この部分は次のように解釈・解説されています。
「上様(=豊臣秀頼)の仰せとして、昨日、徳川家康と上杉景勝の使者が互いに、増田長盛の取り次ぎによって(話を)調えたが、(家康側と景勝側それぞれが)内心では(そうした考えは)伴っていない、としている。
このことから、この時点でも秀頼の命として、五奉行の一人である増田長盛が取次として、家康と景勝の調停をはかったが不調におわった、ということがわかる。
「このことに関連して、公儀については上様(=豊臣秀頼)の御意のまま(に従う)と、上杉景勝は述べているが、これも(景勝の本心は)わからない、としている」と。
やはり「上様」は、白峰氏の見解通り、豊臣秀頼と考えるのが自然ではないでしょうか。また家康と景勝が「縁組」を結ぶという秀吉の遺言があったというのは事実でしょうか。秀吉は生前、大名同士で勝手に婚姻を結ぶことを禁じていました。もっとも、秀頼と千姫との婚姻を結ぶようにということは、生前言っていましたが、徳川家と上杉家との婚姻については本当にそういう話があったのか、改めて検討する必要があるように思います。
「一、上様(=豊臣秀吉)が言い残されていたとのことで、昨日、徳川家康と上杉景勝の縁組について双方の使者として増田長盛が仲介者となって整ったそうです。内心はそのような縁組には賛成できないのです。公儀のことは上様のお考えどおりにすると上杉景勝は申されたそうですが、これも信用できないことです。ともかく、すでにこちらは弱い状況になっているので、ここはよく考えて判断しなければならないところです」と。 このうち、「縁組」にあたる原文は「縁辺」ですが、白峰氏の見解では、「調停の話」、また「上様」は「豊臣秀吉」ではなく、「豊臣秀頼」と捉えられ、この部分は次のように解釈・解説されています。
「上様(=豊臣秀頼)の仰せとして、昨日、徳川家康と上杉景勝の使者が互いに、増田長盛の取り次ぎによって(話を)調えたが、(家康側と景勝側それぞれが)内心では(そうした考えは)伴っていない、としている。
このことから、この時点でも秀頼の命として、五奉行の一人である増田長盛が取次として、家康と景勝の調停をはかったが不調におわった、ということがわかる。
「このことに関連して、公儀については上様(=豊臣秀頼)の御意のまま(に従う)と、上杉景勝は述べているが、これも(景勝の本心は)わからない、としている」と。
やはり「上様」は、白峰氏の見解通り、豊臣秀頼と考えるのが自然ではないでしょうか。また家康と景勝が「縁組」を結ぶという秀吉の遺言があったというのは事実でしょうか。秀吉は生前、大名同士で勝手に婚姻を結ぶことを禁じていました。もっとも、秀頼と千姫との婚姻を結ぶようにということは、生前言っていましたが、徳川家と上杉家との婚姻については本当にそういう話があったのか、改めて検討する必要があるように思います。
この記事へのコメント
一、内符(徳川家康)利家(前田)輝元(毛利)景勝(上杉)秀家(宇喜多)
此五人江被仰出通(御脱力)口上、付縁辺之儀 互可被申合事
とあり上様遺言の縁辺とは五大老同士の縁組のことで相違ないと思います
関ケ原前後の書状をみても上様は秀吉のことで、秀頼は秀頼様と記述されてますので景勝の言う上様は秀吉のことでしょう
また本書状は1600年とするには、
1,三成よりの使者にて小西、寺沢が輝元のもとに来たとありますが隠居中の三成にそんなことが可能でしょうか、そもそも関ケ原では寺沢は東軍です
2,大坂城は彼方衆持ち候て此方は一切出入りできずこの時片桐、小出
が内府方の為ととれる記述がありますが1600年であれば三奉行も在城してましたし大坂城で輝元、増田、安国寺、大谷などが4月28日会津出兵当年差し止めの相談をしており挙兵前に入城できないという事実はなし
3、三成が身を引かないとどうにもならないだろうと増田が語ったとありますが1600年であれば隠居しており1599年の隠居直前の状況でしょう
4,山名が昨日来られましたとか山名を調略に用いるとありますがこの書状が
1599年のものであれば他の山名が登場する辛島文書も同年の可能性が高いと思います
5,家康と景勝の縁組について双方の使者として増田長盛が仲介者となって
昨日整えたとありますが会津にいる景勝とどうやって1日で使者の往来ができるのでしょうか両者が伏見にいた1599年の状況だと思います
他にもありますが大体以上の点からも光成氏のいわれるようにA書状は
1599年閏3月に比定されるものと思います。