旅行記142 石田三成の実像2621 壱岐対馬を経て韓国へ1 まずは博多へ
4月26日から5月2日まで、博多、名護屋、壱岐、対馬、韓国の釜山、ソウルと、三成関連遺跡を中心に巡ってきました。三成は、文禄の役の際、秀吉の代わりに、増田長盛・大谷吉継と共に奉行として渡海しています。その足取りをたどってみようというので、オンライン三成会の人々と一緒に、博多から船で壱岐対馬を経由して韓国に行きました。韓国にある、日本軍が築いた倭城や三成も参加した戦いの跡地へは17年前にも訪ねましたが、その時は往復飛行機でした。しかし、今回は三成が行った時と同様、船を利用しました。もっとも、高速船でしたから、当時の船路の大変さとは比較になりませんが、その一端はしのべます。帰りはソウルから飛行機でしたが。今回、韓国で訪ねたところは17年と重なる場所もありましたが、初めてのところも何か所か廻りました。
今回は10連休を利用して(私以外はみな勤めておられるので)の旅でしたが、具体的な計画が出たのは4ヶ月程前でした。驚いたのは、その時点で、連休初日の博多のホテルがすでに空きが少なくなっていることで、急いで予約しました。さらに帰国するソウルからの飛行機も、料金が安い便はすでに埋まっており、かなり高い便を予約せざるをえませんでした。10連休の旅行予約がいかに早い段階から多いか、実感しました。
連休の初日の27日の午後1時半に唐津駅に集合して名護屋城跡(文禄・慶長の役の渡海は名護屋からでしたが、今は名護屋から韓国に行く船はありません)を見に行くことに、その後決まったので、前日から博多入りすることにし、さらにもう一泊ホテルを予約しましたが、最初に予約したホテルはすでに一杯で、別のホテルを予約せざるをえませんでした。
前日の26日は、新幹線の運賃を安くあげるために、1ヶ月前の予約で、こだま号にしました。新大阪から4時間半ほどかかりますが、正規の運賃の四割ほどでいけます。着いたのは夕方だったので、博多駅前のホテル近くを散策しました。
今の博多の繁栄の基礎を築いたのは秀吉であり、九州攻めの折でした。秀吉は荒れていた博多を復興させ、町割りを行いました。太閤の町割りと呼ばれていますが、実際に町割りを行った奉行の一人として、三成もいたと云われています。博多の拠点化を図ったのは、将来の朝鮮出兵のためでした。秀吉は慶長3年に、小早川秀秋の転封に伴い、三成に小早川の筑前・筑後の旧領を与えようとしますが、三成は辞退しています。当時、慶長の役の最中であり、秀吉が三成に筑前・筑後を与えて大幅加増しようとしたのは、朝鮮出兵に重要な地と考えて、三成を抜擢したのではないでしょうか。この点に関して、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長4年に新たな朝鮮半島への派兵計画があり、三成も福島正則と共に大将に擬せられていることから、筑前・筑後を三成を与えようとしたのも、それと関係があるのではないかと指摘されています。
今回は10連休を利用して(私以外はみな勤めておられるので)の旅でしたが、具体的な計画が出たのは4ヶ月程前でした。驚いたのは、その時点で、連休初日の博多のホテルがすでに空きが少なくなっていることで、急いで予約しました。さらに帰国するソウルからの飛行機も、料金が安い便はすでに埋まっており、かなり高い便を予約せざるをえませんでした。10連休の旅行予約がいかに早い段階から多いか、実感しました。
連休の初日の27日の午後1時半に唐津駅に集合して名護屋城跡(文禄・慶長の役の渡海は名護屋からでしたが、今は名護屋から韓国に行く船はありません)を見に行くことに、その後決まったので、前日から博多入りすることにし、さらにもう一泊ホテルを予約しましたが、最初に予約したホテルはすでに一杯で、別のホテルを予約せざるをえませんでした。
前日の26日は、新幹線の運賃を安くあげるために、1ヶ月前の予約で、こだま号にしました。新大阪から4時間半ほどかかりますが、正規の運賃の四割ほどでいけます。着いたのは夕方だったので、博多駅前のホテル近くを散策しました。
今の博多の繁栄の基礎を築いたのは秀吉であり、九州攻めの折でした。秀吉は荒れていた博多を復興させ、町割りを行いました。太閤の町割りと呼ばれていますが、実際に町割りを行った奉行の一人として、三成もいたと云われています。博多の拠点化を図ったのは、将来の朝鮮出兵のためでした。秀吉は慶長3年に、小早川秀秋の転封に伴い、三成に小早川の筑前・筑後の旧領を与えようとしますが、三成は辞退しています。当時、慶長の役の最中であり、秀吉が三成に筑前・筑後を与えて大幅加増しようとしたのは、朝鮮出兵に重要な地と考えて、三成を抜擢したのではないでしょうか。この点に関して、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長4年に新たな朝鮮半島への派兵計画があり、三成も福島正則と共に大将に擬せられていることから、筑前・筑後を三成を与えようとしたのも、それと関係があるのではないかと指摘されています。
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