フランス文学探訪85 ジイド「法王庁の抜穴」1 リアリズム小説からの脱却・作品への「私」の介入

 「法王庁の抜穴」は以前は文庫で出ていましたが、今は本を手に入れるのが難しいのではないでしょうか。この作品を取り上げたのは、個人的なことになりますが、大学の卒論で取り上げたからです。もっとも、卒論ではもう一作「贋金つかい」にも少し触れてはいますが。「法王庁の抜穴」の内容に入る前に、卒論のテーマを少し述べておきたいと思います。
 二十世紀文学は、十九世紀のリアリズム小説の枠からどのようにして抜け出すか、その方法の模索から始まりました。十九世紀のリアリズム小説では、作者は三人称という形を用いることで、自由自在に作中人物の行動を叙述したり、その心理を描写、分析したりしていました。作者は作品に姿を現わすことはしないにもかかわらず、作中人物や小説の出来事に対して、全知全能の神のごとき立場に立っていました。小説を書いているのは作者自身ですから、それはごく当然のことだとも言えますが、ジイドはこういう全知全能の作者を否定するのです。素朴に三人称で作品を書き続けたリアリズム小説家に真っ向から挑み、新たに視点というものを設定します。作者も人間である以上、登場人物の何から何まで知ることは困難であり、ある一点からしか登場人物を見ることはできないと言うのです。
 その考え方を具現化したのが「贋金つかい」という小説であり、ジイドが唯一「ロマン」と名づけたものですが、その前に彼は「法王庁の抜穴」という実験的な作品を書いているのです。この作品はジイド自身、「ソティ」の一つとして分類していますが、「茶番」という意味です。「私」が作中、何回となく顔を出して、ストーリーを中断させて感想を述べたりふざけたりするのです。この「私」は作者とも言えますし、語り手とも言えますが、全知全能の神としての存在ではなく、登場人物がどういう行動を取るのか読者と一緒に追っていったり、推測を加えたりします。あくまで読者と同じ視点に立っているという意識で貫かれています。もっとも、「狭き門」や「田園交響楽」と違って、かなり軽いタッチで、作者自身、楽しみながら書いているという印象は否めませんが。
(2003年06月14日 公開)

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