三成の実像2107 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」7 豊国社参拝は上杉攻めの戦勝祈願
慶長5年(1600)7月5日に宇喜多秀家は豊国社に参拝していますが、このことについて、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、次のように記されています。
秀家は「7月5日、秀吉を祀る今日の豊国社(京都市東山区)において『神馬立(じんめだて)』の神事を執りおこない、同月7日には南御方が同じく豊国社で湯立神楽(ゆだてかぐら)を奉納している(『舜旧記』)。いずれも、上杉討伐への出陣に先立っての戦勝祈願であろうか。
ところが、7月15日以前に、秀家は徳川討伐を画策する石田三成・大谷吉継らに同心し、『大老』毛利輝元(7月19日に大坂到着)とも示し合わせて挙兵を決断した」と。
この見解は、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)の中で示されていることも記され、この大西氏の見解については、拙ブログでも以前取り上げました。秀家のこの参詣を「前代未聞の物々しい出陣式」とし、家康討伐の意思を示したことだとする白川亨氏の見解に対して、大西氏の同書では、論拠を挙げながら否定されています。
一方、これも拙ブログで取り上げたように、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中の「時系列データベース」(慶長5年3月~同年12月)で、「舜旧記」の7月5日条には、「宇喜多秀家が豊国社へ参詣」という記載があり、その解説で、白川氏の見解と、河合秀郎氏の見解が紹介されています。
このうち河合氏の見解は、「決起の主導者は宇喜多秀家。三成は乗り気ではなかった?」という題でもわかるように、秀家のこの豊国社への参詣が反家康の出陣の儀式であり、三成の挙兵が引き金になったという通説を覆し、秀家の方が積極的だったというものです。
大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」の「宇喜多秀家関連年表」には、慶長5年6月の項に「秀家、備前岡山に一時帰国(義演准后日記)。上杉攻めに浮田左京亮を従軍させる(戸川家譜)」と記されています。
この時点では、秀家は上杉攻めを本気で考えていたのではないでしょうか。初めから家康を討つことを考えていたら、左京亮を従軍させなかったはずです。むろん、それは家康を欺く秀家のポーズだと考えられなくはないですが、それにしてはリスクが高すぎます。実際、秀家が三成方に付いた時、「家康に従っていた浮田左京亮は、そのまま徳川方に寝返っている」と同書に記されています。とすれば、秀家の参拝は上杉攻めの戦勝祈願のためのものだったとする大西氏の見解の方が妥当性がある気がします。
秀家は「7月5日、秀吉を祀る今日の豊国社(京都市東山区)において『神馬立(じんめだて)』の神事を執りおこない、同月7日には南御方が同じく豊国社で湯立神楽(ゆだてかぐら)を奉納している(『舜旧記』)。いずれも、上杉討伐への出陣に先立っての戦勝祈願であろうか。
ところが、7月15日以前に、秀家は徳川討伐を画策する石田三成・大谷吉継らに同心し、『大老』毛利輝元(7月19日に大坂到着)とも示し合わせて挙兵を決断した」と。
この見解は、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)の中で示されていることも記され、この大西氏の見解については、拙ブログでも以前取り上げました。秀家のこの参詣を「前代未聞の物々しい出陣式」とし、家康討伐の意思を示したことだとする白川亨氏の見解に対して、大西氏の同書では、論拠を挙げながら否定されています。
一方、これも拙ブログで取り上げたように、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中の「時系列データベース」(慶長5年3月~同年12月)で、「舜旧記」の7月5日条には、「宇喜多秀家が豊国社へ参詣」という記載があり、その解説で、白川氏の見解と、河合秀郎氏の見解が紹介されています。
このうち河合氏の見解は、「決起の主導者は宇喜多秀家。三成は乗り気ではなかった?」という題でもわかるように、秀家のこの豊国社への参詣が反家康の出陣の儀式であり、三成の挙兵が引き金になったという通説を覆し、秀家の方が積極的だったというものです。
大西氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」の「宇喜多秀家関連年表」には、慶長5年6月の項に「秀家、備前岡山に一時帰国(義演准后日記)。上杉攻めに浮田左京亮を従軍させる(戸川家譜)」と記されています。
この時点では、秀家は上杉攻めを本気で考えていたのではないでしょうか。初めから家康を討つことを考えていたら、左京亮を従軍させなかったはずです。むろん、それは家康を欺く秀家のポーズだと考えられなくはないですが、それにしてはリスクが高すぎます。実際、秀家が三成方に付いた時、「家康に従っていた浮田左京亮は、そのまま徳川方に寝返っている」と同書に記されています。とすれば、秀家の参拝は上杉攻めの戦勝祈願のためのものだったとする大西氏の見解の方が妥当性がある気がします。
この記事へのコメント
会津出兵の為なら7月5日以降なぜ東国に向け行軍しなかったのでしょうか?
浮田左京亮は宇喜多騒動の際に反秀家側で上方に留まっていた人物で
家康を討つことを考えていたからこそ会津出兵を機に危険分子を追い払ったという考え方もあります。
そのまま西軍決起後も宇喜多軍の中に置いておいたら戸川などと連絡をとり
機密情報が筒抜けになるか戦場で寝返られるという最悪の展開も考えられます。
部下を従軍させたのは吉川、安国寺を派兵した毛利家も同様ですが
安国寺の要望で7月上旬に輝元の祐筆を大坂に派遣しており
(大坂で輝元名義の書状を作成するため)
この時点で挙兵は決まっていたと思われ、会津に武将派遣は上方挙兵の意思なしの証左とはならないと思います。
会津征伐の部下派遣で協力の姿勢を示し6月16日の家康大坂出発の前に毛利、宇喜多が帰国したのは家康を油断させる擬態ではないでしょうか。
前年前田征伐の噂が盛んでしたが毛利、宇喜多が上方に留まってることを警戒したのか上洛阻止の石田、大谷の防衛陣のみで結局陣触れせず(丹羽長重を先陣に等は二次資料)外交交渉で屈服させた前例から学んだのかもしれません
返答が大変遅くなって、申し訳ありません。
宇喜多秀家の豊国社の戦勝祈願は、家康を討つためだったのではないかというご見解を、いろいろ根拠を挙げながら示していただき、ありがとうございました。私もそれらの点について、改めて検討し直し、拙ブログ記事の方で、その内容について私見を述べさせていただきますので、ご覧いただければと思います。またご意見がありましたら、お知らせください。