旅行記89 姫路・赤穂旅行3 赤穂市立海洋科学館と塩田・「忠臣蔵」のきっかけは塩?

 
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 写真は赤穂海浜公園の中に復元されている入浜式塩田を12日に撮ったものです。奥に見えているのは赤穂市立海洋科学館です。
 科学館発行のパンフレットには、入浜式塩田について、次のように説明されています。
 「潮の干満の差を利用して、海水を塩浜に送りこみ、砂に塩の結晶がつくようにしています。わが国独自の方法として、約400年間盛んに行われました」と。
 公園には、この他、揚浜式塩田、流下式塩田なども復元されていましたし、昔の藻塩焼き、現在のイオン交換膜法についても、博物館の展示で学びました。赤穂海浜公園のあたりはかつては広大な塩田がひろがっていましたが、今は塩は工場で作られています。
 藻塩焼きは、同パンフレットには、「塩をとるもっとも原始的な方法のひとつです。海藻を日に干し焼いてできる塩分を含んだ灰や、干して塩分のついた海藻に海水をかけてかん水をつくり、これを土器で煮つめて塩をとります」と記されています。百人一首の、藤原定家の歌の中にも、「焼くや藻塩」という表現が使われています。
 揚浜式塩田は中世に行なわれていた製法で、同パンフレットには次のように記されています。
 「塩をたくさんとる方法として考えられたこの方法は、原料となる海水をくみあげて塩浜と呼ばれる砂を敷いて浜にまきます。太陽の熱により水分を蒸発させ、その砂を集めて海水をかけかん水をつくります」と。
 また流下式塩田は、「昭和20年代後半から始められたこの方法は、表面に粘土を張り、ゆるい傾斜をつけて盤の上に海水を流し、太陽の熱で水分を蒸発させます。更に、枝条架によってかん水をつくります」と記されています。
 現在行われているイオン交換膜法については、「イオン交換膜法によりかん水をつくり、更に真空式蒸発缶で煮つめて塩をとる方法です」と説明されています。
 「かん水」という言葉が使われていますが、「濃い塩水(約19%)」のことであり、、「塩分濃度約3%の海水から」「いかに早く大量につくるかの歴史」が「日本の塩づくり」だったと説明されています。
 「忠臣蔵」で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及んだ原因として、塩の問題があったという説があります。吉良が赤穂の塩の製法を内匠頭に教えてもらおうとしたところ、それを断わられたため、吉良がそれを恨んで内匠頭をいじめたというものです。かつて民放で放送された、三船敏郎さん主演のドラマ「大忠臣蔵」でもそのような解釈がされていました。

この記事へのコメント

鳥越九郎
2023年11月30日 13:51
三河出身の尾崎士郎氏の提唱された説ですが
吉良家の領地に塩田はなかったことが今日では判明してるようです
石田世一
2023年12月04日 10:33


鳥越九郎さん
コメント、ありがとうございます。
確かに「西尾市塩田体験館 吉良饗庭塩の里」のホームページには、忠臣蔵塩田原因説に否定的見解が詳しく述べられていますね。後世の創作だということがよくわかりました。ご指摘、感謝申し上げます。

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