京都探訪7 「南禅寺・金地院」 家康の外交僧であった崇伝

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 写真の左側が南禅寺の塔頭である金地院の塀であり、桜の花が垣間見えています。大豊神社に参拝に行った時に、道中だったので撮りました。
 金地院と言えば、崇伝という家康に仕えた外交僧のことがまず念頭に浮かびます。豊臣家が再建した方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」の部分を金地院崇伝が問題視して、難癖をつけ、それをきっかけとして大坂冬の陣を引き起こし、夏の陣で豊臣家を滅亡させました。そういう意味では、江戸幕府の大なる貢献者ですが、僧としてはむろん、褒めた業績ではありません。
 崇伝は三成より9歳年上であり、1560年の生まれです。南禅寺の住職になったのは1605年ですから、関ヶ原の戦いの5年後です。大坂の陣のきっかけを作っただけではなく、キリスト教の禁止や「禁中並びに公家諸法度」「武家諸法度」などの制定にも加わりました。自ら僧でありながら 、寺院を統制する「寺院法度」まで関わっていますから、これも寺としての自立をはかるべき僧としての自覚に欠けていると言われても仕方ありません。日本国中の人々すべてをいずれかの寺の檀家にするという制度をこしらえましたが、それはキリスト教を排除するためでした。もっとも、江戸時代の寺の過去帳が残っておれば、当時の人々の没年や系図が辿れるという利点も、歴史学的に言えばあるのですが。
 彼がなくなったのは1633年でしたが、僧としては破格の出世を遂げ、僧録という特別な地位につきました。むろん、そうなれたのは、徳川幕府と深く結びついていたからでした。
 私は金地院の前をいつも素通りするだけで中に入ったことはありませんが、方丈は伏見城の遺構を移したものであり、鶴亀の庭は小堀遠州の作、書院の襖絵は長谷川等伯の作ですから、一度拝観しておきたいところです。
 家康の遺髪を納めた東照宮もありますが、東照大権現という家康の神号を考えたのは天海であって、崇伝は明神の方を主張しました。しかし、秀吉が豊国大明神であり、縁起が悪いという天海の主張が通り、権現の方を採用しました。そういう経緯で見ると、崇伝ゆかりの寺に東照宮があるのは皮肉なことだと言えます。むろん、家康を神と崇める気持ちには変わりなかったでしょうが。

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