母との面会の前に妹と「すき家」で食事・妹が名を覚えていた柳ヶ瀬近くの伯母の食堂「丸万」 母との面会の時は、妹と療養病院に近い「すき家」で待ち合わせをして、一緒に昼食を取ってから行くことにしています。21日も牛丼セットを食べてから、コーヒーを飲み、近況を伝え合い、いろいろと話を交わしました。 岐阜の柳ヶ瀬へ行った話もしましたが、柳ヶ瀬付近で伯母が営んでいた食堂の名前を妹は覚えていて、「丸万」だったと言い、確かにそ… コメント:0 2024年05月23日 #柳ヶ瀬 丸万 #伯母の食堂 続きを読むread more
大河ドラマ探訪520「光る君へ」24 淡路守に決まっていた藤原為時が、越前守への栄転が決まった経緯をめぐって 「光る君へ」では、除目で淡路守に決まっていた藤原為時(まひろ〔紫式部〕の父)が、漢語ができることを評価され、日本に来て越前に滞在している宋人と交渉するため、越前守への栄転が決まったというふうに描かれており、それはおおむね史実に即したものでした。このことは、拙ブログ記事で前述したように、福嶋昭治氏の講演会「紫式部と源氏物語」の中で、当時… コメント:0 2024年05月23日 #光る君へ #藤原為時 越前守 #福嶋昭治氏の講演会 続きを読むread more
石田三成の実像 3676 白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なの… 白峰旬氏「『日向記』収載の黒田孝高書状写について―伊東家軍勢による宮崎城攻略は私戦なのか公戦なのかー」の中で、「宮崎城攻略が公戦ではない証左」として、「(慶長 5 年)10 月19 日付小杉丹後守宛長倉兵國書状」も挙げられていますが、その中の「乍去ケ様ニ大錯亂之砌者、自他致才覚、其家之ためニ成事、世上在之儀候間、自然 殿下ニ被企御忠儀… コメント:0 2024年05月23日 #伊東家軍勢による宮崎城攻略 #石田三成 #惣無事体制の崩壊と私戦の復活 続きを読むread more